ねているときいがいねむい

ねているとき いがい ねむい

人には人の乳酸菌

そうなってくると何もわからない

9月末、20歳の大学生の家に遊びに行った。同じボクシングジムに通う大学生の家は、いかにも大学生のために建てられたような木造アパートで、屋根なしの駐輪場には自転車やバイクが無秩序に駐められていた。
いつも私にカレーを奢ってもらっているからと、手作りのビーフシチューとポテトサラダを振る舞ってくれた。ビーフシチューは牛肉ではなく豚バラで代用したものだったが、お金がないのに人のために料理をつくろうという心意気が偉いなあと感心し、その気持ちだけで十分嬉しかった。
人の家に遊びに行って本棚を見せてもらうのが好きで、そのラインナップが全てを表すとまでは言わないけれど、本棚を見るとなんとなくその人のことが少しだけわかったような気になれる。無造作に並ぶ背表紙の中から「超ひも理論」というワードを見つけて、掘り出しものを探し当てたときのような気分になった。

 

自転車で川へ行って焚き火をした。以前「休みの日って何してるんですか」と聞かれて「川で焚き火」と答えたら、「自分も誘ってくださいよ」と言われていたのだった。焚き火台をセットし、ファイヤースターターを使った火起こしを教えるも、見るからにおぼつかない手付きで火は一向につかなかった。一瞬だけ貸りるつもりで「角度をつけて、こう」とやったら火がついてしまい、そのまま焚き火が始まった。
薪を焚べながら「ボクシングをやめようか迷っている」という相談を受けた。9月の大会に出て引退するつもりだったが、コロナで大会が中止になってやめるタイミングを失ってしまったのだという。「週一くらいの息抜きとして続けたら?」と提案すると「院試が…」と浮かない返事が返ってきた。
「大会が終わったら院試の勉強に集中したい」というのは前から聞いていたことだったので、そう決めたならそうするのが良いと思う、自分が納得できるまでたくさん悩んで決めたら良いよ、というようなことを薪を継ぎ足しながら話した。 
少し間があって「高校最後の試合が自分の中でコンプレックスで…」と話し始めた内容を要約すると、高校最後の試合で力を出し切れなかったことを後悔していて、大学に入ってボクシングを始めたのは自分のそういう部分を克服するためでもあったけれど、最後の大会が流れてこのまま中途半端に終わって良いのか悩んでいるということらしかった。

 

自分も高校最後の試合のことはよく覚えている。私たちのチームはそれまで前年から引き継いだ県3位の座をなんとかキープしてきたが、最後の試合でノーマークだったチームに初戦で負けた。放心状態で涙も出なかった。控室みたいなところに戻ったときにセンターとライトの子が後輩の肩に頭をうずめるように号泣しているのを見て、泣くんだ…と思った。
誰が言い出したのか忘れたが、3年の8人で散歩に出かけることになった。最低でも準決勝まで進むつもりで来てたから使える時間はいくらでもあった。丸い石を拾ったり木の枝を杖にしたり、それなりにわいわいしながら河川敷を歩いた。誰も試合の話をしなかった。
いつのまにか港に着いた。大きな船がもうすぐ出航するところで、人がたくさん集まっていた。そこにいたおばさんから「はいはい、あなたたちもこれ持って」と、船と繋がれた紙テープを渡された。よくわからないまま色とりどりのそれを受け取り、汽笛を鳴らして出て行く船をテープがちぎれるまで見送った。

 

このことを今でもたまに思い出して、あれって夢だったのかな?と思うことがあるのだけれど、この前友達に話したら、やっぱり同じ時間を過ごしただけあって覚えてるよ、あれ何だったんだろうね?と言っていて、本当に、あれ何だったんだろうね。

ということもあって自分は高校最後の試合のことは別に後悔していない。負けたこと自体は悔しかったけど、自分たちはそれまでやれるだけのことをやってきたという自負もあった。

 

回想シーンは一旦終わって場面を焚き火に戻す。あくまで自分の経験上「人生この先"最後の◯◯"みたいなことってたくさんあるはずだから、あまり一個一個にこだわることはないんじゃないかな」と話したら、「複雑に考えてそうに見えて、意外と考え方シンプルなんですね」という、褒められたのか貶されたのかわからない反応が返ってきた。今は私の分析はどうでも良くて、ん〜人の相談に乗るって難しい。


その後院試の勉強以外にも今よりジムに遠くなるところに引越すとか、最後のスパーリングでやり切ったのでそれを自分の集大成にしようと思うとか、ボクシングをやめる理由が次々出てきたので「言い訳を探すとキリがないから、それ以上深掘りしない方が良い」と言った。強い口調で言ったつもりはなかったが、突き放した言い方に聞こえたかもしれない。実際やめるやめないは本人が決めることだから、別に私はどっちでも良いと思っていたところもある。

焚き火そんなに興味なさそうだし、そろそろ撤収しても良いかな…などと考え始めた頃になって、「6月にはじめて彼氏ができて、なんか、満たされちゃったんですよね」という言葉が返ってきた。

 

「そうなってくると何もわからないな」

自分で言いながら途中で可笑しくなって笑ってしまった。そうなってくると何もわからない。「満たされる」とはどういう状態なのか。それとこれとは別問題ではないのか。私には、何もわからない。


ボクシングのプロテストに合格したとき、すごくすごく嬉しかった。これまでの人生で一番嬉しくて、合格できました!って色んな人に言いまくった。調子に乗ってインスタでも報告した。コメントで「すごい」とか「かっこいい」とかちやほやされて、そしたらなんか、別に人に褒められたくてやってたわけではないんだよな…と急にしらけてきて、タイトルを「全日本キューティクル選手権で優勝しました」に書き変えた。キューティクル選手権の優勝をみんなが祝福している。ウケる。それで満足した。
私の承認欲求は自分ではコントロールできないほど歪んでいて、最終的にこの空洞を埋めることができるのは自分しかいないのだろうと半ば諦めている。最近知ったガクヅケ木田の『後輩君』という曲がすげぇ良くて、具体的に「わかる」となる箇所が3つあるのだけれど、特に突き刺さったのは「自分で自分の首を絞めながら自分に酸素をあげているようだ」という部分だった。そのあと歌詞は「こんなことを続けていたら潰れてしまう」と続くが、そうすることでしか呼吸ができないのだから仕方ない。


どうしたって満たされないことについて峯田和伸日本武道館で下記のように語った。

自分は「幸せになったら銀杏のライブなんて来ないでください」と言ってきた。でも考えてみたら、彼女もいなくて仕事もなくて孤独だっていう悲しさと、仕事があって恋人もいて子供も生まれて幸せなはずなのに、どうしても湧き上がってくるむなしさ、悲しさと、どっちがはたしてきついんでしょうか。今年で40になりますけどまったく満たされないです、多少おカネも入ってきたけど全然満たされない、それは俺が20歳の頃と変わってないからで、俺みたいな人間はこうしてやっていくしかない、だから観に来てください──。
(2017年10月13日『日本の銀杏好きの集まり』)

出典:峯田和伸、20年間でもっともすばらしかったステージ。2017年10月13日、銀杏BOYZ 日本武道館実況レポ|DI:GA ONLINE|DISK GARAGE

今やライブは会場に行かなくたって配信で見れる時代になったけど、こうして何かあったときに、そう言えばあのとき峯田があんなこと言ってたなって思い出せるのは、あの日あの場所に私もいたんだ、約1万人の銀杏好きが峯田の紡ぐ言葉に耳を傾けたあの空間に私も居合せたんだという事実があるからで、やっぱりライブを会場で見ることはすごい体験なのだと思う。

着地点がズレたが、満たされるとはどういうことなのか、私には何もわからない。「何もわからない」という状態がただ漠然と目の前に横たわっている。今まで気づかないように目を背けていた部分の蓋を開けられて、どうにも立ち行かなくなってしまったのだ。

 

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それから結局どうやって思考停止状態から抜け出したのかは覚えていない。いつの間にかどうでも良くなっていた。自分より一回りも下の子が言ったことにムキになるのは大人げないな…と抑えていたが、正直なところ、けっ、という気持ちがなかったわけでもない。というかめちゃめちゃあった。けれども、満たされないことが私の原動力になっているようなところもあるし、究極、完全に満たされてしまったら死にたくなるだろうとさえ思う。
紙テープを持って出航を見送ったあの時間も無駄ではなかったはずで、未だに「あれ意味わかんなかったよね」と同じ思い出を共有できる友達がいるのは本当に幸運なことだ。無駄にこそ意味があり、或いは意味などなくても良い。持論が止まらんな。

 

あれから結局彼女はボクシングを続けることを選んだらしい。詳しい経緯は聞いていないが、練習後に行くカレー屋は先日ついに10軒目となった。そこで「院試をやめて就活することにしました」と報告を受けて、また唐突な…と笑ったけれど、本人がすっきりした表情をしていたので良かったなと思う。

「理系で院に進まないのって少数派過ぎて浮きませんでした?」という質問には「自分はそもそも大学のメインストリームにいたことがない」と答えた。

いつだったか一緒にカレー屋で話している中で、自分の10年後の希望の光だと言ってくれたことがあって、そのときはこんな大人にならない方が良いよと軽く流したが、現時点で既に私たちは違う方向に分岐しているように思う。

つまるところ自分は自分、他人は他人。人には人の乳酸菌。この言葉をお守り代わりにしてきたけれど、岡本太郎は著書『自分の中に孤独を抱け』の中で

どうも猿族は自分と他人様を区別しすぎるからね。小さいエゴをかわいがり、守ろうとするあまり、ひとはひと、自分は自分と形式的にわけてしまうんだ。
でもじつは、自分だって他人だし、他人だって自分なんだ。まことに己れを超えて、他に強力に働きかけていく、単数であると同時に複数者である者こそ、ほんとうの人間だ。

と語っている。この考え方はちょっと衝撃的だった。私も早く(早くなくてもAs Soon As Possibleで良いので)、猿族からほんとうの人間になりたい。

 

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